この原稿は2003年秋にブレーン出版より出版された「視覚シンボルの心理学」の一章として書いたものです。ピクトグラムの分かりやすさを、文献調査をもとに心理学の分野において様々な角度から述べたつもりです。 また、今後PICシンボルが単なるピクトグラムとしてではなく、PICシンボルという独自のシンボルデザインまたその体系を考えるためのベースもしくは出発点にしたいと思いました。



「視覚シンボルの心理学」 清水寛之(編著)ブレーン出版  p21-46


視覚シンボルの認知
〜PICシンボルの視知覚特性〜

オフィス・スローライフ  林 文博


1.はじめに

(1)視覚シンボルの働き

 日常的に見慣れた電話マークや、♪、〒といった絵や図は記号(sign)の一種であり、音声などを伴わない点より特に視覚シンボルとも呼ばれる。例えば、卍(まんじ)は地図で使われるお寺の図記号であり誰もが知っているが、先史時代には幸福を祈るという意味をもつと同時に、回る太陽の象徴として世界各地で使われてきた。しかし、近代になってドイツのナチ党がこの卍を基にハーケンクロイツ(Hakenkreuz){ }を作りそれを用いた結果、こちらの方は多くの人々にとって恐怖心や悪、憎しみといった強い感情を引き起こす視覚シンボルになった。ある人にとっては、それを一瞥しただけで踵を返すという動作を反射的に起こさせる視覚シンボルかもしれない。恣意性が高かったシンボルがシグナル(清水 第1章)の持つ作用を生み出すことさへある、という例である。このように、シンボルの持つ意味は一つではなく、時代、状況によって、また見る人によっても変化する。

(2)PIC (Pictogram Ideogram Communication)シンボル

 PIC(ピック)とは、Pictogram Ideogram Communicationの略でり、ピクトグラム(pictogram)と呼ばれる具象的なシンボルとイデオグラム(ideogram)と呼ばれる抽象的なシンボルからなるコミュニケーション方法の体系である。1980年にカナダのマハラジ氏(S.C.Maharaj)により言語障害の人々のために補助代替のコミュニケーション手段として開発され、世界各国で使用されている。同様にコミュニケーション手段としての視覚シンボルには他にもブリスシンボル、PCS、サウンズ&シンボルズ等幾つかの種類があるが、「PICシンボル」(図1)は主にピクトグラムをベースとして作られたもので、視覚シンボルの中での一つの表現方法である。




(3)ピクトグラム・デザイン

 これまでにもピクトグラム自体は案内記号としてトイレの入り口、非常口等、建物内の場所やオリンピックの競技種目など特に20世紀の中頃より世界中で広く使われてきた。最近では、動物園や巨大施設の案内図など、一般社会での目的もさらに広がっており、深く社会に浸透してきたといってよいであろう。こうした背景にはピクトグラムが子どもから大人まで、また国や文化を超えて誰でも一目で分かるデザイン性をもっているということがある。一方、記号性の高いイデオグラムは交通標識や電気製品の機能表示などで利用されているが、ピクトグラムに比較して国、地域、分野ごとに独自性が高く、誰もが分かるというものではない。基本的に学習を必要とするものが多い。

 非常口(図1)のピクトグラムは誰もが目にしたことがあり、デザイン的にも優れたサインであるが、その制作者である太田(1987)は「見て解るピクトグラムは、心身の解放をも可能にする」と述べている。文字とは異なる次元での分かり易さと受け入れ易さがそこにあるというわけだ。しかし、一口にピクトグラムといってもそのデザインの次元やタッチといったものは様々であり、決して一様に分かりやすいわけではない。黒地に白(もしくは白地に黒)という基本的な特徴が生む分かり易さに加えて、優れたピクトグラムには何かしらそこに共通する要因があると考えられる。一般の人々にとっては、それを目にした時に「何かに見える」というのでは不適切で、一目で「わかる」ものでなければならない。


(4)ピクトグラムの定義と特徴

・ピクトグラムは黒地に白の図をもつ

 ピクトグラムにはどのような特徴があるか?ピクトグラムは線画ではなく、かつ色をもたない。原則として方形の黒地に白(もしくは白地に黒)の図をもつ。従いその構成要素の第一はキャンバスとしての地である黒い方形、二番目に白抜きで対象物をシンボライズした形、すなわち図である。図は線によって補われることもある。この構成そのものが他の視覚シンボルと大きく一線を画し、第一の特徴となっている。視認性が高く、統一性があり、そしてデザインとしての美をも併せもつシンボルとして広く一般に認められるようになった基本的な特徴である。

 ここで、この図となる形について考えておきたい。目を開ければわれわれの周りには様々な物があり、それらは全て形をもっている。生活空間にはテーブル、時計、本など様々な物がある。それらは各々独自な形をしており、その物がもっている意味や機能と分かちがたい。つまり、形を通して我々はそれが何であるかを知る。それでは目の前の三次元上に存在する実物だけが形をもちそれが何であるかを教えてくれるのだろうか?そういうことはない。実物だけでなく、二次元の写真、絵やピクトグラム上のシルエットでさえも容易にそれが何であるかを分からせてくれる。つまり二次元であれ三次元であれ形を知ればその物を知ることができる。形の知覚こそが知ることの第一歩であり、基本である。

・ピクトグラムは色をもたない

 第二の特徴はピクトグラムは色をもたないということである。実物はそれが暗闇の中にない限り色をもっている。それが何であるかを知る手がかりとして形の次に重要な要素は色であろう。とはいうものの、実物がもっている色はその物の本質ではない。例えば、一つの実在する傘を考えても「青い傘」「花模様の傘」などまず色をもつ傘となるだろう。しかし、一つ一つは全て「傘」であり、その定義は「雨、雪を防ぎ、日光などをさえぎるため頭上にかざすもの」(広辞苑)である。そこに色は必要ない。つまり色をもつということは、赤ではなくて「青い傘」というように「ある色の傘」として、より具体性をもたせて限定することになる。従いシンボルに置き換えようとすると、色は「傘」という概念を表すためには無用な要素であり、余分な紛らわしいものになる。色には重要な情報が含まれることが多いが、こうした観点よりピクトグラムは原則的に色をもたない。例外として、国旗や固有名詞的なシンボルや形に優先して色が弁別要素として重要な場合などごく限られた範囲で色を必要とするだろう。但し、PICシンボルの場合は、臨床場面においてピクトグラムの認知訓練のための色塗り(coloring)のように二次的に利用されており、色はユーザーサイドでよりコミュニケーションを豊かにすることを目的にするためなど、用途と目的に応じて使えるものとして位置付けられよう。一方で公共のシンボルとして捉えるときは、色をシンボルの意味要素として取り入れる弊害も知っておく必要がある。白人の8%、日本人でも2.5%、約300万人いるといわれる色覚障害の人にとっては利用しづらくなってしまう。 

 この章では、こうした基本的な特徴をもつピクトグラムおよびピクトグラムをベースとしたPICシンボルが分かり易さを生む要因について、人間の視覚情報処理というシステムからどのようなことが言えるのか、主にヒトの視知覚特性を中心に、さらに認知とその周辺事項からの視点も加え、これまでに得られた知見より考えてみたい。併せて、PICシンボル1個のレベルのデザイン性とコミュニケーションの体系という視点からのデザインの在り方、さらに利用の仕方などについても検討を加える。


2.優れたシンボルデザインとは 〜 視知覚の特性とピクトグラム


(1)ゲシュタルト心理学からみたピクトグラム

 ピクトグラムの特徴を、前述の太田は「形の単純化と意味の凝縮。本質的要素を視覚的に表現するため形はぎりぎりの骨格にまで煮つめられる。細部の表現を避けて全体を単純化し、特徴を引き出して強調すれば、そのものの意味が伝わりやすくなる」と記している。この一節は、いわば物事の全体を個々の部分や要素に細分化して捉えようとしてきた還元主義、要素主義心理学に対して「全体は部分の和ではない」とし、今日の認知科学の重要な一部になったゲシュタルト心理学( コフカ K. Koffka 1935 ; カニッツァ Kanizsa, G. 1985;相場 ・鳥居 1997 ) に通じるものを感じさせる。ゲシュタルト(Gestalt)とは独語で「形態」を意味する。先に述べたように、ある物を「知る」ためには形の知覚がもっとも重要であるが、そのための知覚の体制化はどのようになされるのか、さらに、まとまった一つの形態として知覚するために人間はどのように視覚刺激を体制化するのだろうか。そこに原理や原則があればそれらをシンボルデザインに生かせないか。ここでは視知覚における体制化の原理をこれまでの代表的な知見、特にゲシュタルト心理学で得られた知見や法則を中心にして概観し、実際のシンボルデザインに照らし合わせてみる。

・図と地の分化



 一様な色に塗られた壁や紙に色や明度の異なる部分を見たとき、「図」と「地」が分化する。視野内での異質な部分、もしくは領域が小さい方が通常は図となり広い一様な方が地となる。分化が生じると図と地の境界線は輪郭線となり、輪郭線は片輪機能として閉じられた方向に働くことで形の知覚を生じさせる。輪郭線が二つの意味を表す場合などは図地反転図形となるが、原則として輪郭線は図に属する(図2)。一方、地になった領域は境界線で終わるわけではなく図が生じることでその下にも一様に存在することとなる。さらに四角に縁取られている黒の領域は背景として丸く広がりつつ後方へと退き、図が形として浮き上がってくる。方形の黒地は図を生み出すための土台としてのみ存在する。これこそが「地」の働きであり、意味である。このことはピクトグラムが単なる線画と異なり、知覚をより確固とするための最も重要な要因であると考える。

・明度差と立体効果

 さらに、図と地に分化するとき、各々の領域間の明度差(輝度差)が効果的に働く。仮に二つの領域間において色の種類(色相)が違っていても、明度差が等しかったり、近い場合は図と地に分化しにくく形が不鮮明になってしまう。つまり黒と白でこそ最も大きい明度差が生まれ、より明瞭な図と地の分化を引き起こすわけである。マンセルの表色系が示すように、二種の色の間で白と黒が生む明度差ほど大きい明度差はない。80%の光反射率と5%の反射率は比率にすれば16:1である。さらに、奥行き知覚の研究からは、明度差によってもたらされるコントラストが3次元的な効果を強く生み出すことが示されている。特にパソコン画面などで見る高輝度のPICシンボルは、極めて高いコントラスト比を持つもので、「図と地の分化」の働きに加えて一層形が浮き上がったように見えるだろう(図3)。



 ちなみに黒が地となるべきか白が地となるべきか?色彩学によれば、図と地の色の組み合わせによる視認性の順位は黒地に白の図が3位であるのに対して白地に黒の図は7位とされている。1位は黒地に黄でその反対が2位であり、これは交通標識の中でも特に重要な警戒標識に使われていることからも理解できる。また、色彩心理学的にも「陰鬱」や「不安」といったネガティヴな象徴として捉えられる黒よりも「純粋」や「公正」の白の方が図として適切と思われるし、例えば顔のシンボルでは顔面が黒で描かれるとやはり違和感をおぼえる。もちろんその組み合わせは場所や目的に応じて変えざるを得ないであろうし、利用現場でも統一されているわけではない。

・主観的輪郭と補間現象



 (図4a)は有名なカニッツアの三角形と呼ばれるもので、誘導図形とよばれる黒い丸と三角形に囲まれて輪郭線をもった三角形が見える。線が無く物理的に輝度差のない所に我々は線を知覚しているのである。実際に神経生理学の分野では大脳において視知覚の領野とされる部位でこの線分に相当して神経細胞が働いていることが発見されている。また仮想上の円周に点を等間隔で置いて行くと(図4b)ある個数以上で円が知覚されるという補間現象が起こる。これもまた同様に、網膜上に刺激がないのに脳内では線分に相当して神経細胞が働いているのである。程度の差はあるが、ピクトグラムにおいてもこうした働きが全体のデザイン性によって生み出される場合がある。(図1)の セロテープの台とテープの境や歩行器シンボルの脚、大工シンボルの腕の線が知覚できるかもしれない。余分な線を加える必要がなければ、利用者は最小限のエネルギーで知覚に至ることができるであろう。また、このように極限まで無駄をなくしたデザインこそが機能美としての美しさをも生み出すのではないだろうか。

・簡潔性の法則(プレグナンツの法則)

 われわれは星座のように夜空に点在する幾つかの星々を一つの「まとまり」として知覚する。これは無秩序に配置された星々を、近くにあるもの同士として群化して知覚しているわけで、ゲシュタルト心理学では「近接の要因」と呼ばれる。また、輪郭線などによって閉じられた領域は一つにまとまる傾向があり、ほどよい連続性をもつ線なども一つとして知覚される傾向がある。各々「閉合の要因」「よい連続の要因」といい、他にも群化を促す要因がある。このように知覚過程では対象をできるだけ簡潔に秩序立て、一つの群として捉えようとする傾向がある。これらを簡潔性の法則(プレグナンツの法則)といいゲシュタルトの法則の中で主要なものである。こうした群化の要因を上手く利用することで知覚の体制化を促すことができる。(図1)の「竹」のピクトグラムの三枚の葉は「近接の要因」で群化され、このまとまりが上下に程良い距離をおいて二つ続くことで、ピクトグラム全体の知覚の体制化を促進している。

 また幼児の発達という観点からは、円、三角形、四角形などの描画能力の獲得にはある程度明確な順序性があり、その逆を辿って有意味度は高くなる。それらの閉合図形はより単純なものであればあるほど心理学的にはっきりと目立つもので、より安定している。こうした心理的な安定性を利用して、例えば楕円を「食べ物」の、正方形を「物」のシンボルとして要素的、普遍的なイデオグラムとし、他のピクトグラムと共通して用いることで新たなシンボルの作成が可能となる。様々な種類の店を表す時に用いられている五角形の線画も同様であり、かつ堅実に働いている(図1:電子レンジ、片付ける、薬屋)。

・視点依存 (viewpoint-dependent)

 物は前後左右もしくは上下斜め、どの視点から捉えたときに最も分かりやすいだろうか?ある具体物を影絵として様々な方向から照らし出してシルエットを見たとき、それを特定できない視点もあることに気付く。物はそれを同定するために3次元的に有効な視点があり、我々は日常生活でも無意識にこうした視点依存(viewpoint-dependent)の見方をしている。例えばハンガーを3方向から捉えたとき(図5)、(a)と(b)を単独で見せられてもそれが何であるか特定しにくい。(c)のように正面から射影図にすれば一目瞭然であり、シンボルとしても機能する。優れたピクトグラムはこの考えが意識的、無意識的に生かされているのであり、次節で述べるが、象の鼻のように、それだけで全体を指し示すことが可能な「標識 (index)」とともに、複数の似た形の物体をシンボル化するときに重要となるだろう。



 ゲシュタルト心理学では「プレグナンツを持つ図形はよい形をしている」と言われる。優れたデザイン性をもったピクトグラムとは様々な知覚現象やこうした法則が随所に生かされた、いわば次元の高い形態であり、見る方は単なる形ではなく部分の総和以上の体制化された全体構造を知覚すると考える。


(2)利用の「場」からみたPICシンボル 〜 感覚能力から考える


 PICシンボルは様々な場所で利用されるが、ここでは基本的な利用場面として、3×3cmサイズ程度のシンボルシールを複数枚貼ったボードを前にして2人の対話者が指差しによりコミュニケーションを計る場面を想定した。そのような条件下において、知覚現象を保証する視力や視野など、ヒトのもつ基本的な視覚能力を考慮するとすれば、どういうシンボル、もしくはコミュニケーションの在り方が適切か考えてみたい。

・視野と視力

 人の視野は成人の場合両眼視で水平方向約180°、垂直方向約130°の楕円形であるが、同心円状に大きく三つ〜四つ程に分けられる。最も鋭敏で細部を見分けることができる中心視は視角1°から2°で、注視時には網膜上の中心窩と呼ばれる狭い場所に像が落ちている。次に傍中心視とされる比較的情報収集力の高い範囲が10°であるが、さらにVサインの2本指のような大雑把な識別が可能という範囲でいえばもう少し広く60°とされ、近周辺視といわれる。そして動きをとらえる範囲を入れれば全体視野の約180°となる(図6a)。さらに網膜上の視細胞レベルからみると、錐体細胞と桿体細胞の2種類がある。錐体細胞は細部の識別を担い中心窩で最も密に存在し、そこから視角20°の範囲に高分布する。これに対して桿体細胞は低照度でよく働き明暗に敏感で、視角0.3°(中心窩より0.1ミリ)から分布し始め視角30°で最も密度を高くする。基本的にこれら二種類の細胞が網膜上で重なりあっている。色の弁別は錐体細胞がさらに3種類に分かれることで成り立っており、錐体細胞の密度が低くなる周辺部での識別は困難となってくる。



 われわれに馴染みの深い視力とは、視覚刺激の解像力のことであり、2点の光源を網膜上の異なる部位で独立した刺激として識別する能力である。これは視角1分(分は1°の60分の1=0.017°)範囲の分解能で定義され、視角1分で2点識別が可能なとき視力1.0である。視角(図6b)は対象の両端が網膜上に張った時の結節点の角度であり、次のような計算式で得られる。

        

  視角θ(度)=57.3×対象の大きさ(x)÷対象と観察者の距離(y)


 注意しなければならないのは、視野内でも視力は周辺に行くに従って低下することである。つまり、一般にいう視力とは、最も高い解像力をもつ中心窩での視力をいうのであって、その値が1.0であったとしても周辺部での視力は0.1にも満たない。(眼科での検査で用いられるランドルト氏環の1.5mm幅が5メートル離れて見えれば視力1.0であるが、これは中心窩での視力である。) 周辺部での視力は、個人差もあるが約10分の1以下と極端に低くなる。これを視角との関係で言えば、中心視視力1.0(視角0.017°)の時、仮に周辺部が0.1であれば2点識別に必要な視角は10倍の0.17°ということになる。

・感覚能力とPICシンボルとの関係

 こうしたヒトの基本的な感覚能力を条件にシンボルの在り方を考えてみる。例えば、2人で一つのPICボードを利用してコミュニケーションを取る時のボードもしくはモニター画面の大きさとシンボルの配置の在り方、そしてシンボルのデザイン上の線の太さである。まずはボードと利用者の距離は指差しが可能な距離として概ね40cmから50cmとし、近周辺視60°内に入る適切なボードのサイズを算出してみる。上記視角の計算式から算出すると次のようになる。


  60°=57.3×ボードの大きさ(x)÷40cm x =41.8cm

  60°=57.3×ボードの大きさ(x)÷50cm x =52.4cm  


つまり利用者の近周辺視内にボードを収めようとした時50cm幅程が最大で適切といえる。これまで市販されてきたPICボードは最大A3のサイズで約42cm幅であるので、この範囲内に収まっていることになる。また、パソコンのモニター画面では一般的な13インチから大きめの20インチでも十分にこの距離で60°視野内に収まる。

 次に最も細かな刺激サイズ(異なる2つの刺激間の距離)について、大雑把だが近周辺視に対応した視力を0.1として識別可能な大きさを考えてみよう。0.17°の視角に入る識別可能な2つの刺激は40cmまたは50cm離れたボード上でどの程度の大きさか。

  0.17°=57.3×刺激間の距離(x)÷40cm  x =1.18mm

  0.17°=57.3×刺激間の距離(x)÷50cm  x =1.48mm

  
これらの値より、例えばシンボルを張り付ける間隔を考えると、ボード上に1.2mm以上でれば近周辺視内でも隣り合った二つのシンボルが異なる網膜上の信号として分離されていることになるだろう。逆にシンボルを寄せて隙間をなくすと一個の独立したシンボルとして捕らえる能力を低めてしまうかもしれない。またデザインの在り方からいえば、1.2mm幅程度以上の線や点を利用したほうが良いといえる。もちろん3cm×3cmサイズの限られた広さでは1.2mmの線幅より細い線も必要かもしれず、細かく規定すればデザイン的に無理が生じる。基本的にこのような数値は視力という感覚能力から割り出したものであって、融通のきく緩やかな指標として認識しておくべきだろう。

・空間周波数における低周波感受性




 視力は微細な識別能力を表したものだが、一方でコントラスト感受性と解像力という点からも視能力の特性を知ることができる。空間周波数(spatial frequency)という概念に基づくものである。空間周波数(図7a)とは、視角1°当たりの明暗縞の本数、つまりグレーティング・パターンの繰り返し数をいい、細い縞は高い周波数、太い縞は低い周波数に対応する。(図7c)のコントラスト感受性関数からはヒトでは低周波から中間周波数、特に5c/degあたりの帯域において弁別の感受性が高いことがわかる。つまりヒトの視覚系は細すぎず、太すぎない相対的に中位の周波数をもつ刺激に敏感であるということである。例えば、書体の明朝体(書体)とゴシック体(書体)をある程度の距離をおいて同じ照明下で見た時に分かりやすいのはゴシック体である。

 さらに、周波数帯域の時間的処理順位で捉えた時には低周波数の方から先に処理されているという生理学的な事実がある。認知科学のテーマの一つである視覚刺激の全体処理と部分処理という対立について乾(1990)は、脳波学的研究から得られたこの生理学的事実を踏まえ、視覚系では「視野の比較的広い範囲から粗い情報が処理された後に、視野中心部の詳細な情報が処理される」とした。これは後述するキンチラとウルフ(Kinchla and Wolf、1979)の心理学的実験から得られた、人間は刺激が提示された時に詳細な構成部分より先に全体特徴を先に抽出し認知へ至る、とした知見とも合致する。分野の異なるこれら一連の研究は、前項の「図と地の分化」や「明度差効果」を感覚と認知の両レベルで支持したものといえるだろう。

 ボード上のPICシンボルは50cm離れても全体としてみると低〜中周波数が中心である。特に、地の部分の黒から図の白を挟み再び黒になる刺激パターンは、低周波数として先に処理されることでまず全体的な形の情報を生み出すのではないか。細かな特徴や複雑な線画を排したピクトグラムは低い空間周波数の分析を通して素早く知覚へ至らしめ、かつ脳内処理に掛かる時間も少なくて済む効率の良い刺激と言える。付け加えると黒と白の2つの信号からなるPICシンボルは、コントラスト振幅が1と0の単純な矩形波(図7b )からなるということも利点であろう。

3.コミュニケーション体系としてのPICシンボル 〜 認知のレベルから考える

(1)視覚情報の脳内処理と認知レベル 



  刺激が視野に入った時の情報の流れを生体内および脳内での流れとして時系列的、解剖学的に捉えてみよう(図8a)。対象に反射した光情報は光受容器である網膜上の視細胞を刺激する。そこで電気信号に変換された情報は、生命中枢である脳幹の一部、視床の外側膝状体という神経細胞核で中継されて新たな情報となり、大脳の後方に位置する視覚野の神経細胞へ届く。この領域は、細胞の種類と構成の違いを基にして大脳皮質を52の領域に分けたブロードマンに従えば17野とされた領域であり、視覚情報が大脳で最初に処理されるため第一次視覚野と呼ばれる。実はこれより僅かに早く視床からの情報は瞬きなどの反射を司る中脳と、もう一つ、側頭葉前方下部の扁桃核という細胞核へ届いており、視覚野で情報が処理されるより前に生体防御という重要なチェックを受けているのである。その働きは、例えば視野に入ったのが蛇であったとすれば自律神経系を介して副腎よりアドレナリンを血液に放出し、いち早く情動的な反応を喚起する。瞬時に身をすくめさせ、血圧上昇や頻脈を伴った攻撃・逃避行動をとらせる。
 
  このルートは大脳ー視覚野ルートでの処理よりも粗削りであり、草むらで一本のひもを視野に捉えても間違って同様な反応をしてしまう情報処理ルートであるが、ヒトへの進化の過程で確固として残ってきた機能でもある。ルドー(LeDoux, J.E. 1994)は聴覚刺激を用いたラットの実験より聴覚系のこのルートを発見し、視覚系でも上記のように同様なことがいえるとした。また実験からは、学習にあたっては大脳皮質聴覚野は必ずしも必要ではないとまでしている。このルートは、これまで二次元図形を用いることで明らかにされてきた「感覚」から「認知」へ至る過程に関する知見とは異なり、基本的には極めて情動的な、生体防御のための過程であり同時に反応までを含むものである。従い、これを即「感覚」〜「認知」の働きとして捉えるには無理がある。しかし、時間的には「感覚」の働きと同時進行し、かつ大脳を経由しての情報に基づいた反応よりも先に反応を引き出すという利点をもつことは間違いない。
 
  一方、このルートが高次の処理にも関連していることが考えられる。(図8b)は 視覚系に関わる主な情報処理経路を模式化したものである。感覚、知覚、認知の各相を解剖学的な部位と直接的に対応させることはできないが、凡そ第一次視覚野までを感覚とし、第2・3次視覚野と頭頂葉、側頭葉間での働きを知覚、さらにこれら二つの葉と前頭葉の一部が主に認知の働きを担っていると言えるだろう。この中で物体の認知において最も高次な働きをするのは側頭葉であるが、図の通り情報はそこを経由して扁桃核へ戻り、扁桃核からもフィードバックが側頭葉へなされている。こうしてみると、情動がどの程度に認知と結びつき、学習と関わるのか興味のあるところである。

(2)トップダウン型とボトムアップ型情報処理 

  前項の図からも判るように、感覚から認知へ至る構図をみると、そこへ至るプロセスは基本的には感覚器から得られた情報を上行性に中枢へ伝えることに依存する。この末梢から中枢へ至る方向性をもつ情報処理型をボトムアップ型処理という。一方で中枢での統合的な働きを利用することで認知へ至る時、これをトップダウン型情報処理とする。前者は対象の線分や角度などを抽出し、さらに特徴を統合することで知覚像を得て、それを意味ある情報として認知するのもので、データ駆動型処理ともいう。後者は、蓄えられた知識の中から概念を引き出し、主体的に知覚心像を構成して対象と照合することで認知へ至るもので、感覚情報の処理にも影響を及ぼす。これは概念駆動型処理ともいわれる。ボトムアップ型とトップダウン型、全体処理と部分処理、これらについて以下二つの実験から考えてみよう。 



 前出のKinchla and Wolfはこれら二つの処理方法について、その境目を視角という要因で明らかにした。実験は、小さいEの文字を並べて作られた大きなH(図9)を被検者に視覚4.8°から22.1°の範囲で視点を動かせない100m秒の短時間提示し、どちらを先に気付くかを調べたものである。得られた結果は、視覚が6°から9°より小さい時には大きな文字Hを先に気付き、それ以上では小さな文字Eが先であった。つまり、提示の条件である視角の大きさによって全体特徴が先かもしくは部分特徴が先かが変化した。対象が傍中心視野で視角6°から9°内の楕円形サイズ内に納まれば全体を捉え、それを超えて網膜上に落ちた時には全体を捉えることができない。全体を捉えられないのは、いわば木を見て森を見ずというところであろう。全体視のためには視野内での刺激の在り方として最適なサイズがあるわけだ。一方でこの現象を良く考えると、高い解像度を持つ中心窩寄りに刺激が提示された時に全体特徴を先に抽出し、逆に低い解像度の傍中心視内に広がる時に細かい構成部分に気付くという逆説的な結果としてもみることができる。中心窩寄りの視能力は常に全体をまとまりとして捉えようとする働きを担っていることが解る。だからこそ、ヒトは絶え間ない眼球運動によって対象を中心視で捉えようとしているわけであり、文字通りの、木を見て森を見ないというようなことは日常生活ではあまりない。



 次に全体と部分という対比から、もう少し複雑な対象について考えてみよう。小谷津(1975)は(図10)のような成分パターンの異なる幾つかの絵を10cm×10cm、観察距離80cm(視角約7°)に収まるように観察者に提示し命名反応時間を調べた。刺激の構成要素である成分パターン数が3個から4個で反応時間が約1秒程度と最小になり、それよりパターン数が増えても大きな変化はないという結果を得た。また、構成部分である正方形などの成分パターン個々の命名反応時間が同じく1秒程であることも確かめられている。ここでも、人は部分的な情報処理をしてそれらを加算した上で全体の認知へ至るというような継時的な統合を行っているわけではないということが確かめられた。またこの実験からは、個々の成分パターンが適切に布置されていれば3〜4個で十分に「これはあれだ」という全体の同定的認知が成立するということが解った。  こうした結果から考えると、絵画など視覚対象の抽象性が高かったり、複雑である場合を除けば、人間の一般的な視行動では、全体から部分へ(Global-to-local)という概念はある程度普遍的で当てはまるのではないだろうか。シンボル作成にあたっては、日常物品など見慣れたものの場合は3〜4個以内の成分で、推理を働かせる必要のない十分な視認性をもつシンボル作りが可能であると言える。

(3)眼球運動と周辺視野の情報収集力 

  知的障害児や失語症者の臨床場面では、多数のシンボルが同時に提示された時、ひとつひとつ指差して中心視野で捕らえることなく、瞬時に目標とするシンボルを指差す場面を目にするが、これは基本的に周辺視野での情報収集力があるからであろう。この点から考えてみたい。  対象を見る際の眼球運動は視知覚において重要な役割を演じており、大きく分けると二つがある。注視 (fixation) とすばやく飛んで眼球を動かすサッケード (saccade) で、注視は約250m秒間持続し、数十m秒のサッケードがこれに続く。視角の大きさでいえば注視で5°範囲内の情報をある程度処理し、ある注視点から次の点に移動するサッケードは大きくても15°以内で、その間の情報処理はなされないという。もちろんこれらは対象の複雑さ、内容および個人に応じて変化する。また意識的なコントロールはほとんど働かず、形態の輪郭をそのままたどるようなこともない。

 (写真1)


  この注視と周辺視野の情報収集についてマックワースとモランディ(Mackworth & Morandi, 1967)の次のような実験がある。ある写真を64のマトリクス状に分け、第1の被験者群にはそれぞれの画素に対して情報量の高さを10段階に評定させた。第2の被験者群には写真全体を視角16°で10秒間提示し注視回数を調べた。注視回数と情報量の関係をみると注視回数は情報量の高い画素に集中していた。例えばMask(写真1)という写真(布のマスクを冠って両目だけを出したもの)では、布の生地のように一様であったり滑らかで予測可能な輪郭線は注視されなかった。情報量の高い部分への注視の間に周辺視で十分にそうした情報を得ることができたからだ。他の研究からも、サッケードによる注視の順番がすでに最初の注視時に周辺視によってある程度まで決められているということや周辺視野の情報は記憶との照合さえもなされていることが解明されており、周辺視野情報の取捨選択は高いレベルでなされていることが言える。 注視される対象は、一つには情報価値が高い部分であり、一方デザイン的には鋭い角や曲率の高い線分である。ただし、この二つは必ずしも同一ではない。鋭角や複雑な曲線をもつ部分が全体から見た時には情報価値の低い冗長で余分な表現ということもあり得る。従い、前項で述べたような成分パターンを3〜4個以内に絞る前の作業として、対象全体を部分に分けて情報価値という視点から順位付けをし、不要な部分を切り捨てるという手続きも大切となってくる。情報価値を見極めること、またそのような情報価値の低い部分を描かないことである。

(4)パターン認識とシンボル化の過程 

  シンボル認知も、情報と概念の照合によってそれが何かを知るパターン認識の一つである。これは上述のボトムアップとトップダウンという二つの経路が安定して働くことで得られる。感覚を通して作られた知覚像と知識レベルからのいわば心の中の理想形であるイデア(idea)のごとき知覚心像、もしくはイメージが出合い、照合されることで生まれると考える。良いシンボルとは、多くの人が共通して持つ事物の普遍的な形があるとして、それをできるだけ単純な形態として具現化したものであろう。その単純化とはゲシュタルトの法則に基づいた角や線分の在り方または配置を基礎として、情報価値の高い特徴の選択とそのパターン化、そして最終的にはシンボル全体のパターン化などである。ここではこうした対応が認知行動を支えるという前提で、より良いシンボルの在り方としてパターン化という点から考えてみたい。

@image-relatedシンボルとconcept-relatedシンボル  

  ある具象物をシンボル化しようとする時に、大きく分けると二つのアプローチがある。写真を取ってその輪郭を縁取り、切り絵のようにそのままシンボライズしたものと、その中身まで良く知ることでできるだけ単純化させたデザインとする二つのやり方である。前者のような写実性の高いものはimage-related、後者の抽象化されたものはconcept-relatedといわれている。image-relatedは写実的であるがゆえに分かりやすいとも言えるが細部まで描き過ぎることで複雑となってしまい、concept-relatedは抽象的になり過ぎると記号性が高くなり認知が困難になってしまう。従ってどの部分をどこまでデザイン的に切り詰めパターン化することができるかという点が重要となってくる。例えば、ひまわりの花びらや種の部分は単純化、パターン化が可能である。メロンの皮の模様もパターン化することで分かりやすさと美しさを生み出す(図1:ひまわり、メロン)。これは対象の外表に限らない。玉ねぎの構造は誰もが良く知っており、幾層にも重なる皮=実という中身をパターン化すれば分かりやすいシンボルになるかもしれない。 こうしたことから、利用者の視覚的認知能力が低い場合はimage-relatedに基づくシンボルを用いることでより確かな認知の補助とし、高い場合はconcept-relatedのシンボルを利用することでさらに抽象能力や概念化能力を育てることが可能である。だだ、現実には2種類のシンボルを作成することは難しいので結局は中庸とならざるを得ないだろう。従い、どの程度パターン化するかもしくは写実性を残すかといった見極めのためには対象を深く観察し本質的な構造を知ることが肝要となってくる。

A抽象性の高い概念のシンボル化と規則化 

  抽象性の高いピクトグラムベースのPICシンボルとしては、校長先生(図1)がある。このシンボルについて認知へ至る過程を考えると、まずパターン化された背景図の「学校」を認知することでその概念の周辺意味野が賦活され、授業、入学式、校長などの関連する概念が喚起される。そして最も適切な「校長先生」という概念が「背広姿の髭を生やした大人」の図と照合されて正しい判断へ至る。つまり「校長」という概念が蓄えられた知識から駆動されることを前提としたトップダウン型のシンボルである。もし利用者に「校長」に近い概念がなければ、単に「学校」と「背広姿の髭を生やした大人」という二つのシンボルをもつ一つの絵に過ぎなくなってしまう。  
 このように、知覚レベルから見た時は形の在り方などが重要な要因であるのに対して、認知レベルは、利用者のもつ知識やそれを駆動する能力が重要になる。また「祖父」のような関係性の視点に立ったシンボルも同様であるが、背景の線画は補助的な役割であって指示対象となる図は白抜きであるというようなルール規則が必要となってくる(図1:祖父、膝)。

B標識(index)の視点  
  
  さらに、細かな特徴のパターン化について述べる。象の長い鼻のように、対象の知覚的特定の部分がその対象全体のイメージを喚起し意味する場合、特に標識(index)と呼ぶ。いわば全体のなかで最も情報価値の高いものである。小谷津の実験での、家の屋根を表した三角やドアの長方形は構成要素であり、部分的な特徴ではあるが標識とはいえない。それらは他の多くのシンボルの構成要素にもなりうるからである。標識とは際立った弁別特徴であり、特定可能な一つもしくはごく限られた幾つかの事物を想起させるものである。従って、シンボルの作成にあたってはこの標識を意識的に取り上げてシンボライズすることで明瞭な、視認性の高いシンボルを作ることができるだろう。例えばトマトと柿の形は似たようなものであり形だけでは弁別できず色を使いたくなるが、へたの部分に注目すると形と広さという点で目立った特徴があり標識になりえる。これらはシンボル化に際してある程度の単純化とパターン化を施しても十分な標識性があるだろう。適切な成分パターンの配置を土台としてこうした標識が加えられることでより良いシンボルを作ることが可能となる(図1:トマト、柿)。

4.終わりに 

  ピクトグラムの分かりやすさが、基本的な構造やデザイナーの資質、才能によると漠然として考えられてきた部分を、視覚系における視知覚と認知という点から明らかにしてみた。今後さらにシンボル作りを進めるにあたっては、このような理解の上で、PICシンボルがコミュニケーションの手段であり同時に単体のシンボルと異なって体系(システム)であるという基本的な点を重視すべきであろう。従い一つの言語体系のような「絵単語の体系」として捉える視点が必要となってくる。一部は前節で触れたが、対表現のシンボル、数を増やすためのルール作り、さらには色の利用方法など、視覚言語体系という視点からのシンボル作りが課題となると考える。



文 献

1)太田幸夫 1987「ピクトグラムデザイン」 柏書房 p85
2)K.Koffka 1935「ゲシュタルト心理学の原理」 福村出版  p81-304
3)Kanizsa, G. 1985「視覚の文法:ゲシュタルト知覚論」 サイエンス社 
4)相場 覚・鳥居修晃 1997「知覚心理学」p11-74 放送大学教育振興会 
5)K.T.Spoehr・S.W.Lehmkuhle 1986「視覚の情報処理」 サイエンス社
6)乾 敏郎 1990「視覚情報処理の基礎」 サイエンス社 
7)LeDoux , J.E. 1994「情動・記憶と脳」日経サイエンス8月号:p58-69 日経サイエンス社
8)R.A.Kinchla and J.M.Wolf 1979 The order of visual processing : "Top- down ," "bottom-up,or"middle-out" , Perception and Psychophysics , Vol.25(3), 225-231 ,
9)小谷津孝明 1992「認知心理学」 放送大学教育振興会 p32-43
10)N.M.Mackworth and A.J.Morandi 1967 The gaze selects informative details within pictures, Perception and Psychophysics , Vol.2 (11), 547-542

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